競艇界のエンペラー!「艇王」ボートレーサー植木通彦選手について徹底解説
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競艇界のエンペラー!「艇王」ボートレーサー植木通彦選手について徹底解説

UPDATE:2023.11.13
ボートレーサー

皆さんは植木通彦選手を知っていますか?「モンキーターン」を使ったレーススタイルで活躍し、ボートレース最高峰のSGレースで通算10勝、G1レースでも23勝の偉業を成し遂げ「艇王」と呼ばれた伝説の選手です。また、レースにより負った大怪我から見事に復活したことから「不死鳥」の愛称でも競艇ファンに親しまれた、まさに競艇界のレジェンドです。今回は植木通彦選手の経歴や実績、エピソードについて徹底解説していきます。

植木通彦選手の経歴

「不死鳥」と呼ばれた若手時代

植木通彦選手は1968年4月26日、福岡北九州市で生まれました。競艇の世界に足を踏み入れる前に、福岡県立小倉商業高校に進学。野球部に所属していましたが、二年生で中退。現在のやまと競艇学校(2017年にボートレーサー養成所に改称)にあたる「全国モーターボート競走会連合会本栖研修所」に入所します。

本栖卒業後の1986年、地元の福岡競艇場でデビューを果たしますが、デビュー三年目の1989年、桐生競艇場でのレース中に転覆し、後続艇のプロペラと接触してしまいます。この事故の詳細については後述しますが、全治5ヶ月、75針を縫うほどの大怪我を負い、一時は復帰すらも危ぶまれる状況となってしまいます。

しかし植木選手は見事に怪我を乗り越えて、半年後に復帰を果たします。このとき、復帰戦の場として選んだのは、自らが大けがを負った桐生競艇場でした。植木選手の不屈の精神は大きな話題を呼び、後に植木選手は「不死鳥」の異名で呼ばれるようになります。

復帰の翌年、1990年には唐津競艇場での新鋭リーグ戦で初優勝、1992年には競艇界において2番目に高いランクであるG1レースで優勝を果たします。レース中の事故で大怪我を負ったにもかかわらず、不死鳥のように復帰を果たした植木選手は、こうして一流選手の仲間入りを果たしていったのです。

SG優勝10回、G1優勝23回、「艇王」としての活躍

1993年、戸田競艇場で開催された「第28回総理大臣杯競走」で優勝、見事にSGレース(スペシャルグレード、競艇界で最も格付けの高いレース)初制覇を達成します。1994年には常滑競艇場で開催された「第41回全日本モーターボート選手権競走」で初優勝、年末の賞金王決定戦では惜敗するものの、初の年間賞金王に輝きます。そして1995年には中道善博選手との死闘の末に賞金王決定戦で初優勝を達成し、翌年1996年には賞金王決定戦を二連覇。1997年には「第24回笹川賞」、2001年には「第11回グランドチャンピオン決定戦競走」で優勝します。そして2002年には「第7回オーシャンカップ競走」、「第5回記念競艇王チャレンジカップ競走」、「第17回賞金王決定戦」で優勝し、一年間でSG三冠という前代未聞の偉業を成し遂げます。

植木選手の偉業は年間SG優勝3回だけではありません。賞金王決定戦優勝3回、10年連続賞金王決定戦出場、9年連続獲得賞金1億円超えなど、数多くの偉業を達成しています。中でも、年間SG優勝3回を達成した2002年に成し遂げた「年間獲得賞金2億8418万4000円」は、競艇界のみならず公営競技全体のなかでの最高記録となっており、この圧倒的な強さ、実績から、競艇ファンからは「不死鳥」の名とともに「艇王」とも呼ばれているのです。

突然の現役引退

そんな圧倒的な強さを誇る植木選手でしたが、2007年の「第42回総理大臣杯」でフライングを犯し、一年間のSG出場資格停止処分を受けてしまいます。休み明けの7月19日、ホテル・パシフィック東京で現役勤続20年の表彰を受けた際に、なんと植木選手は突然の現役引退を表明します。会見の中で「今回の引退は、桐生での事故の後、これからどうしようかと考えたときに、桐生のみなさん、そしてお世話になったみなさんのためにも、「20年間、命を懸けて走ろう」と決心しました。そしてその20年が来ました。」と引退の理由を述べた植木選手。こうして、「不死鳥」「艇王」と呼ばれたレジェンド:植木通彦は、20年のボートレーサー人生に幕を下ろしました。

その後、植木選手は2008年4月より一般財団法人日本モーターボート競走会の理事職に就任、後に執行役員も務めたほか、自身が卒業した競艇選手育成機関「やまと学校」の校長も歴任。2018年6月からは、「BOAT RACE振興会」のボートレースアンバサダーを勤めています。

また、2008年にはボートレースの殿堂入りを果たし、同年11月には出身地、福岡県北九州市の若松競艇場内に「フェニックスホール(植木通彦記念館)」がオープン。さらに若松競艇場で開催される新鋭リーグ戦では、彼の名を冠した「植木通彦フェニックスカップ」も開催されているなど、現在に至るまで植木選手の偉業は語り継がれているのです。

植木通彦選手のプレースタイル

SG初優勝を導いた「モンキーターン」

植木選手のプレースタイルといえば、SG初優勝の第28回総理大臣杯の際に披露した「モンキーターン」です。モンキーターンとは、ボートの上に前傾姿勢で立ち上がり、舟の外側をけるように回る旋回方法のこと。通常の旋回よりも外側に荷重がかかることで高速旋回ができ、膝への負担も軽くすることができる画期的な旋回方法で、現在ではボートレーサー養成機関やまと学校でもカリキュラムに組み込まれている技となっています。

「モンキーターン」の創始者は史上初の大卒競艇選手としても知られる飯田加一選手とされています。当初は危険な乗り方とされており、飯田選手もしばしばモンキーターン時に転覆を起こしていました。しかし、その後試行錯誤が繰り返されたことによりモンキーターンが成果を上げるようになり、若手ボートレーサーを中心に注目を集めるようになります。

植木通彦選手は新人時代に大けがをしたにもかかわらず、危険を伴うモンキーターンを果敢に自身のプレースタイルに取り入れていきました。そして1993年、植木選手はモンキーターンを駆使してSGで初優勝を果たします。植木選手の優勝によってモンキーターンは競艇界全体に受け入れられるようになり、多くの選手がモンキーターンを採用するようになったのです。

植木通彦選手のエピソード

全治5ヶ月、75針を縫う重傷を負った新人時代の転覆事故

植木通彦選手が「不死鳥」と呼ばれるきっかけとなったのが、新人時代の転覆事故による大けがからの復帰を成し遂げたエピソードでした。選手生活3年目の桐生競艇場でのレース中、植木選手は第一ターンマークで転覆。時速80キロのスピードで走る後続ボートのプロペラに顔面を切り刻まれるという壮絶な事故に遭ってしまったのです。

病院に搬送された際、顔は原型を留めていないほど損傷していたといわれていますが、それでも植木選手は「スタート位置は正常だったのか」を気にしていた、という逸話が残っています。

一時は目も見えなかったため、現役復帰は危ぶまれましたが、父親からの励ましなどもあり、わずか半年後には自身が負傷した桐生競艇場でレースに復帰。植木通彦選手の不屈の精神は、多くの競艇ファンの心を動かしたのです。

中道善博選手との激闘!数十センチの差で決まった1995年の賞金王決定戦

植木通彦選手の20年の選手生活の中でも、競艇の歴史に残る激闘として語り継がれているのが1995年末の「第10回賞金王決定戦」です。このレースで植木選手は5号艇からマクリを狙い、ターンマークの度に中道選手と先頭が入れ替わる大接戦となります。通常、競艇は第1ターンマークで大体の順位が決するために、接戦となることがあまり多くはありません。どちらが勝っても2億円賞金プレーヤーの誕生の賞金王決定戦という大一番で繰り広げられた熱い接戦は、競艇界で語り継がれるほどの大激闘となったのです。

最後まで並走しながらゴールまで走り抜いた2選手でしたが、わずか数十センチの差で植木通彦選手が勝利し、見事に賞金王となります。この激闘は翌日のスポーツ紙でも大きく取り上げられ、植木選手の名を轟かせる象徴的なエピソードとなったのでした。

まとめ

今回は、新人時代の事故で大けがを負ったにもかかわらず、果敢なプレースタイルを取り入れて強さを追求し、競艇の歴史に残る偉大な功績を残した競艇界の「艇王」植木通彦選手について解説してきました。若松競艇場には植木通彦選手の記念館もあるので、現在でも競艇ファンの間で語り継がれている植木通彦選手の伝説を実感してみてください!